昭和52年03月22日 朝の御理解



 御理解 第59節
 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」

 昨日は、親教会の春の御霊祭りで御座いましたから、私共若先生、幹三郎それに竹内先生も一緒に、四人で参拝のおかげを頂いて。若先生が祭員のおかげを頂きました。善導寺の霊祭の時にいつも思うんですけれども、やっぱり七十年も八十年も経ちますと、やはりそれだけの長い歴史の中には、沢山な人達がやはり助かっておる訳です。ですから親達とか、爺とか婆達がここの御霊屋にお祭りして頂いておるというので、その孫とか孫の嫁とか、やっぱりあの遺族の人達が、大祭の時よりもお参りが多いですがねいつも。
 いわゆる古い御信者さん方の、まぁ遺族の方達がね。それもちゃんとお寿司をつけて来たり、おまんじゅうを作ってきたり、もう手作りでね。もう昔からの人の習慣のようなものがある訳です。もう親代々もうこれだけは、もうあのかた寿司や、もうあそこから普通まんじゅう、普通もちはどこから来るという風に決まってるんですよね。それがんなら普通お参りあっておるかと言うと、普通は大祭の時でも参って来ん。
 霊祭といういわば、御通知を受けると、その古い御信者さん方のところの、なら孫とか嫁達までがお参りをする。本当にまあ有り難い事ですけれども。まぁ今日の御理解を頂いて思うんですけれどもね。本当にこれは、私自身の事ですけれども。本当に誰が何と言うたって、あの善導寺教会、いわゆる三井教会あって合楽であるという事でございます。ですからこれはもう、どんな場合であってもんならあの、三井教会初代荒巻弓次郎先生のおかげで、今日の大坪があり、今日の合楽があるんだと。
 例えば、いろんな問題が親教会との間に、もう本当にいろんな問題がありまして、ちょうどまる五年間、空間時代がございました、椛目時代。それでも私はもう毎日、お日届けだけは、欠かした事はありませんでした。これはあの時がちょうど四十五年、五十年祭でしたかね。五十年、四十五年祭から五十年祭までの五年間、空白ありましたけれども、毎日、お日届けだけは毎日お初穂を書かせてもろうて。それが沢山やっぱり五年間分溜まっておりましたからね。
 それでおかげで五十年の記念祭には、まぁその当時で、私の思うておる通りの事が出けました。もうそれこそまぁそれ、その後の記念祭は、私が思うておるぐらいな事ではない。それこそもう夢にも思わなかったようなおかげが段々開け、頂けるようになって参りましたけれども。まぁその時分は今のような、合楽が椛目の時代。今のような盛んではありませんですからね。それでもやはりあの、毎日お日届けだけはさせて頂き、そのちょうどその間にあの、大洪水がありましてね。
 それがその、大洪水で浸かってしまったんです、お初穂が。それであの久保山先生に、こんな、あのもうまだなま乾きでしたけれども、そのままその私はその当時、門外不出でしたから、あの親教会に参拝してもらいました。してもう三井教会でも、もう畳は全部腐らかしてしまっておられて、まぁ大変な水害に遭っておられる。そこへその、久保山先生がこんな包みを持って行ったもんですけん、何かこう大水見舞いか何かと思われたらしいんですよ、あちらではね。
 もうそげなんもんどんもらいよると、またどげな宣伝に使われるやら分からんけん、持って帰ってくれち言われて。もうそれこそ、久保山先生がもう、泣く泣く持って帰った事がございました。私の気持ちがまだ通じないと、こう言うわけなんです。まぁその後において、あちらの総代さんの河野さんという方が見えて、大変色々、教会の内容を聞かせてもらいましたから、河野さんの名義で、私は色々御用させてもらいましたけれども。それから、また何年。ちょうどまる5年間でしたけれども。
 もうそげなこつなら、もう止めとこうかちいう事は一つもなかったです。必ず分かって頂くと、こう思ってるですから。そういう例えば、もうそげなこつなら、もうんなら止めとこうと言うて、やはりやはりお日届けだけは、やはり欠かさずさせて頂きましたから、五十年の記念祭には、今申しますように、おかげを頂いて御用が出けた。私は今日の御理解を頂いてね、教えて頂いておる事を覚えておって、おかげで出世しと、まぁ出世という言葉ではないにいたしましてもです。
 今日これほどしの人が助かるようになり、もう私ども一家一門としては、もう勿体無いようなお取り扱いを受けられるようにならせて頂いたのも、初代荒巻弓次郎先生あっての事だと、こういう事です。おかげでおかげで今日の合楽がございます。おかげで助からせて頂いておりますという私が例えば、昨日親教会の霊祭におかげを頂いて実感させて頂いた事でしたけれども。出社も星野、北野と合楽と三軒ですけれども。その北野も来てなからなければ、昨日星野も来てなかったです。
 ですから結局なら、おかげを受ける者、受けられない者の開きとか差というものはね、それは、ならいつもかつも来なさらんという事じゃありませんよ。大祭の時には、星野からもまた、いつも霊祭には、北野からも見えるし、星野からも見えとったです。どういう御都合じゃったか分からんけれども、見えてなかった。結局合楽だけでした。ただ鳥栖の先生が、あちらの子供さんですから、あちらは久留米の出社ですけれども、やはり昨日は、鳥栖の先生が見えておりました。
 となら家の若先生で奉仕させてもろうてね。おかげを頂いて今日の合楽がありますという事が、本当にあのわからせて頂いて、それに応える自分ならば、神恩報謝のんなら心と言う様なものが現せ続けられる。それが間断しない、どういう場合であっても切れない。例えば私のそういう真心を踏みにじる様な事を言わっしゃったっちゃの、もうそげなこつならもう私もう、今日ぎり、もうお初穂、もう止めとこうと言うておったんでは、神も喜び金光大神も喜び、氏子も喜びという事にはならないと思うですよね。
 まぁ私はちょっとした言うならば、神も喜び金光大神も喜び。言うならば私共も喜べれる信心とは、私と三井教会言うなら合楽が生まれて、言うなら27~28年になりますが。様々な事がありましたけれども、それこそ一日だってそういう願いとか思いというものが間断なしに続けられたと言う事なんです。それはどう言う事かと言うと、初代荒巻弓次郎先生の御信心あって、今日の合楽の信心が、大坪家の信心があるんだと思い込ませて頂いておるし。
 んなら私がどんなに、例えば親教会に御用が出けたからと言うてね、それはもうこれで良いということは決してない。まぁ言うならばそうですね。まぁ利払い位が出けて行きよるという事でしょう。しかもこれは合楽、三井教会がある限り、永遠に続く事でしょう。どれだけの、私がなら御用が出けたからと言うて、元金を返してしもうた。もうこれで三井教会とは、縁が切れたと言う様な事が、あろうはずがありません。
 例えよし出けたとしてもです、それはそんならば、利払いぐらいな事だと、こう私は思うております。だからもうこれで良いとか、これで済んだという事ない。しかもならその間にどういう、なら事情があり、問題があってもです、もう私と三井教会の中に色んな煩わしい問題が起こって来るとは思われませんけれども。なら過去においては、なら御参拝を5年間、断絶になったような形になっておりましたけれども、私の心の中んは、三井教会あっての合楽だ。
 三井教会あっての、当時の椛目だ、神愛会だという風に、やはりこれは思い、しかも続け。そしてそれを形の上にも現し続けたと言う事。そういう信心が、あなたのおかげで出世をしてと、喜ぶという事はそういう事じゃなかろうか。一遍か二遍か、本当あなたのおかげで助けちもろうちからおかげ頂きよりますと。時々お礼にどん行くというぐらいな事ではなくて。
 言うなら霊祭の時だけ、爺婆がお世話になっとったからと言うて、お参りをすると言った様な事ではね、そりゃもう全然お参りをしないという人も、三井教会辺りでは、長い歴史の教会ですから、沢山あります。全然根も絶えてしまっておるという。けれどもその中に、いくらか昔の、んなら御信者さんの遺族の方達が残っておって、大祭の時よりもお参りが多いぐらいにあるという事はです、有り難い事ですけれども、これでは神も喜び、金光大神も喜び、自分も喜びと言う様な事にはならないと思うです。
 信心ちゃもうどこまでも、それこそ深いもの。言うならば、地味豊な物。何かがあったから、それで、もう切れたと言った様な浅はかなものではあってはならないと言う事。私は今日の御理解に、まあ切ったりしておるのは、私と三井教会のことではなかろうか。必ず、神も喜び金光大神も喜び、氏子も喜びという、そういう三者が一体になって喜び合えれるような信心が、今日このように続いておる。また続かなかったら、もう合楽はお終いです。私はそう思う。
 昨日も若先生が、幹三郎に祭員をさすると言うて、もう準備をしておりましたけれども。アンタが行って、あんたがお祭り仕えんていう事があるもんかい。と言うて私が無理に、若先生に祭員をさせました。その思いがね欠けたら、もう信心は言うならば、神も喜び、金光大神も喜び、そして私どもも一緒に喜び合えると言った様な事はない。段々そう言う様な事からね、思いが気薄に薄くなってくる。
 そっからいつの間にか、もうそれこそ、霊祭の時だけお参りすると言った様な事から、その霊祭ですらもお参りが出けないような事にすらなりかねないのです。金光様の御信心は、そういう信心は教えておられない。それこそ、これで済んだとは思いませんというね、限りない信心。どれだけの事が出けても、これで済んだとは思わんという信心。そういうね、地味豊な信心を身につけて行きたいと思うですね。
   どうぞ。